教育天声人語
小説で「知らない世界」を知る


  次期高校の学習指導要領では「文学国語」は選択である。必修の「現代の国語」では社会生活に
 必要な、「『文学的な文章』を除いた」論理的、実用的な文章を扱うという。大学入学共通テスト
 に向けて公表されたモデル問題も、駐車場の契約書や景観保護のガイドラインなどであったから、
 実社会で必要な会議で議論する力、交渉する力、情報を読み取る力などを養うことをこれからの
 国語教育では最優先していることがわかる。
  が、自分にとっての国語教育を考えたときに、論理的、実用的な文章についての印象は極めて
 希薄である。ほかの方もそうではないだろうか。記憶に鮮明の残っているのは、むしろ『文学的
 な文章』ではないだろうか。
  以前、「心がギスギスしているなと感じたときには書店に行き、心が優しくなる小説を探す」と
 書いたが、社会生活を送るときに精神が安定していることは極めて重要であると思う。人生で感
 性がもっとも敏感な思春期に、落ち込んだり、立ち直ったり、支え合ったり、仲たがいしたり…
 といった、時に順調にはいかない、時に人の温かさに触れる人生経験なしで育つとしたら、人の
 気持ちのわからない殺伐とした大人になるのではないかと心配である。
  そして私自身は、小説を通して自分の知らない世界に触れてきたことは紛れもない事実である。
 東京育ちの私は『破戒』を読むまで「エタ・ヒニン」(いまこれらの語を使用していいのかわからな
 いが、限られた読者対象なので許していただきたい)の存在を知らなかった。お恥ずかしいが「ハ
 ンセン病」も遠藤周作の『わたしが・棄てた・女』である。もっと挙げれば、戦後すぐの「パンパン」
 (在日米軍将兵を相手にした街娼)も『ゼロの焦点』である。金沢の社長夫人が自分の過去を知ら
 れそうになって殺人を犯す物語。こう書きながら、発刊後すぐ、文芸評論家の平野謙が「この小
 説には犯人はいない。犯人がいるとすればそれは『戦争』である」と言ったことを思い出した。『文
 学的な文章』こそ社会生活を送るうえで、自分に縁のない世界を知るうえで必要だと思う。

「ビジョナリー」2019年11月号掲載     |もくじ前に戻る次に進む

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