教育天声人語
一世代前の信じられない日本

  つい最近読んだ本で、ビックリするような記述に出くわした。「昭和20年9月、アメリカ軍が和
 歌山県の和歌浦に上陸し大阪に進駐するというので、その数日前通路になる紀州街道を自転車で
 走ったら、沿道には大勢の人が出て、道路を清掃していた」というのである。自転車で走った
 のは民俗学者の宮本常一。本は『旅する巨人 宮本常一と渋沢敬三』(文春文庫)。渋沢敬三は言
 うまでもなく日本銀行総裁、大蔵大臣を歴任した財界人である。筆者はノンフィクション作家の
 佐野眞一。
  8月15日まで「鬼畜米英」ではなかったのか。つい数か月前、沖縄ではアメリカ兵の上陸を恐れ
 て婦女子は自害したのではなかったのか。それが総出で清掃!?
  基本的には、宮本常一と渋沢敬三の足跡をたどった伝記で、戦争や政治について書いたもので
 はない。が、持っていた歴史認識、時代感覚が吹き飛ばされるような記述にしばしば出会った。
 対馬で宮本が会った郵便逓送人は毎日40キロ先にある村まで徒歩で郵便を配達していた(往復80
 キロ!)。『山の郵便配達』という中国映画を観たことがあるが、戦後の日本でも同じようなこと
 があったのだ。
  戦時下の空襲で家を丸焼けにされ、戦後北海道の開拓地に移住した大阪人の23世帯は、3回の
 冬を越すうち14人が栄養失調と凍死で亡くなり、宮本が訪ねたときには3世帯になっていた。
  自分が生まれていた戦後の同時期に、地方によってはこのようなすさまじい状況にあったこと
 を少しも知らないでいた。わずか一世代前には江戸時代とさほど変わらない生活があちこちで営
 まれていたこと、それを思い知らされた。
  この本は、つい最近購入したのであるが、奥付を見ると、「2009年4月10日 第1刷」とある。
 こうした本はなかなか読まれないから、忘れられた歴史はそのままである。

「ビジョナリー」2016年7月号掲載     |もくじ前に戻る

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