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入試に関するさまざまなデータ、大学合格実績のデータを扱いながら、いつも底流にあるの
は「学校教育ってどうあるべきだろう」という問いだ。
個人的経験から言えば、高校・大学は、実社会に出ると読まなくなる本、行かなくなる場所
・・・・・・そうした経験をする時間であり、場所であると思う。別な言い方をすれば、「思いっきり
観念的なことに使っていい時間」、それが学校生活だろう。前にも書いたが、今振り返れば、生
活にも仕事にもまるで役に立たないものを読み、企業人には縁のないところに足を運んでいた。
高校時代の友人を見ていても、紛れもなく「人は思春期の文化を背負って生きている」と感じる。
そうした個人的経験ではなく、仕事を通じて共感する学校のあり方では、最近は格差の拡大
をひしひしと感じているので、「ノブレスオブリージュの精神を育てる」「民主主義を守る意思」
「人の痛みに気づく人に」・・・・・・といったスタンスの学校に惹かれる。
また、TV,新聞で目にする、リーダーとされる人たちの発言が、自分が属する組織内の立場
での発言ばかりで(政治家も、官僚も、経済人も、学者も)、国民全体への責任などまるで念頭
にないかのように見える。
そうしたとき、鷲田清一さん(哲学者・元大阪大学総長)の『しんがりの思想』(角川新書)を読
んだ。そこに、自分のモヤモヤを解消してくれるピッタリな言葉が見つかった。カントが「理性
の公的使用」ということを言っている。「職務から、つまりある集団や組織のなかでおのれに配
置された地位や業務から離れて、『世界市民社会の成員』として、おのれの理性を用いること」。
社会に出て組織の一員となれば、何の疑問もなく組織のために「理性の私的利用」になるであろ
うから、学校にいるうちに「理性の公的利用」の精神に触れておくことが必要ではないだろうか。
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