教育天声人語
見解が分かれるエピソード

  ここでこんな些細なことを書いたものか、大いに迷ったのだが、学校教育が生徒を社会人にす
るという役割を担っていることを考えると、とても重要な要素を含んでいると思うので書いてみ
たい。教育関係のポータルサイトで偶々見つけた日常生活の書き込みである。最初のスレの内容
は概ねこんなことだった。
 「門から玄関まで階段があるので、重いものはネット注文して配達してもらっている。先日、ピ
ンポンが鳴ってから5分以上待っても配達員が玄関に来ないので、どうしたのかと外に出ると、
60代以上の女性で、『重くて持てないので手伝ってほしい』と言われた。足元もおぼつかないよう
だったので、結局自分一人で運んだ。が、重いものを持てない配達員って変じゃないか」
 このスレに対して、「お知らせメールや電話で『10分後くらいに』などと到着時間がわかってい
る時は、門扉の所まで迎えに出るようにしています。」という書き込みもあるのだが、「重い物が
運べないなんて配達員として致命的ではないでしょうか? 採用の際、しっかり体力測定でもして
もらいたいですね。宅配本社に問い合わせメール先がありますから婉曲に伝えてみてはいかがで
しょうか。」とか、「配送の仕事は激務だから多少のことは目をつぶりましょうとか、高齢者だっ
て働かなくてはならない事情があるのだからそこを汲んであげましょう、という考えには賛成で
きません。」という方向での書き込みのほうが圧倒的に多いのだ。
 若い先生方も大勢はこの多数派の感覚なのだろうかと、気になった。確かに正当な主張かもし
れない。が、自分サイドの要求ばかりに関心があり、相手側の事情・背景には少しも想像力が働
かない人が多くなっているように感じる。
 今は、自分の意見をきちんと主張することが重視されているが、他人への「想像力」、「寛容さ」
といったものも生きていくうえでは欠かせないと思うのだ。

「ビジョナリー」2015年8・9月号掲載     |もくじ前に戻る次に進む

(c)安田教育研究所 無断複製、転載を禁ず