|
東北地方のブロック紙がなぜ「河北」新報と言うのだろうと、ずっと思っていた。明治維新以降、「白
河以北は一山百文」と侮蔑的に表現されていたことへの反発から、あえて「河北」を名乗ったことを、
この本で知った。
他紙が「死者1万人以上」と大見出しを付けるなか「犠牲1万人以上」と表現した地元紙の苦悩、
校舎の屋上にコピー用紙を並べて「SOS」を発信した教員、柿の種を1人1粒ずつ分けあって一夜を
明かした病院、ビルの屋上の30人が波が去った後10人に減っていた組み写真、去年の今頃には知ら
なかった被災者を襲った過酷な現実も数々。が、私が通勤の車中で何度も目頭を熱くしたのは、それ
だけではない。後方部隊の社員の奮闘ぶりに「仕事をするとは何か」を考えさせられたからだ。
水も電気もガスもすべて止まるなか、震災当日の夜から17日間にわたってひたすらおにぎりを握
り続けた総務局と営業本部の女性社員。水が不足し、米のとぎ汁で食器を洗うような状態だった。信
号機はもちろん街灯も壊れて漆黒の闇のなかをヘッドライトの明かりだけを頼りに新聞輸送するト
ラック運転手。通常のルートが通れなくなったために、町はずれのコンビニの前で、零下4度の未明
にトラック便を待ち続ける販売店主。ガソリン不足に陥った販売所のために隣県にまでガソリン調達
に走る販売部員……。本社だけではない。山形総局は兵站に徹することを覚悟する。現場に出たいと
いう若い女性記者(料理をしたことがない)におにぎりを握らせる男性先輩社員がいる。
報道部と取材記者だけが活躍したのではないことがよくわかる。誰もががフォロワーシップを発揮
したからこそ、自らが被災者でありながら1日も休まず新聞を発行し、読者に届けられたのである。
学校もそうではないだろうか。教務、広報、進路だけが重要なのではない。各自が柔軟に自己の責
任を果たす。皆がそれができてこそ信頼される学校になれるのではないだろうか。
|