教育天声人語
いろんな学校があることが私学の強み

  大学進学マニュフェストを公表し、「その実現に向けて、わが校はこのような学力養成システムを構築
 している」ということを謳う学校が年々多くなっている。いま親たちは「それなりの大学を出さなければ、
  わが子は大企業の正社員になれない」という強迫観念にとらわれているので、こうしたタイプの学校を選
 んでいる。が、今月久しぶりに訪れた学校は、そうした潮流とはまったく別のところに身を置いていた。
 ●晃華学園 学校案内を開くと、最初のページのいちばん上に、「恵まれているのは恵まれていない人の
 ため」と記されている。「Noblesse Oblige」(ノブレス・オブリージュ)が聖書の中の言葉「すべて多く与え
 られた者は、多く求められ、多く任された者は、さらに多く要求される」に由来することを説明し、この
 学園に集う生徒は「多くを与えられた者」と言えるでしょう、と語っている。だから、「将来どのような社
 会で生きることになっても、『喜んで与えられた役割を果たす人』『他者のために生きる人』を育てたい」と、
 続けているのだ。
 ●桐朋女子 定期考査も、通知表も、成績優秀者の表彰も、生徒の合格大学名の掲示も……すべてなし。
 要するに他校が生徒のモチベーションアップに使っている要素がこの学校にはことごとく存在しない。
 高3の必修は保体のみ、他はすべて選択科目。高2で自分の人生をきちんと考えさせるためである。生
 徒の多くが高3まで部活に燃える。それでいて、偏差値40台の学校では考えられない大学合格実績。「桐
 朋教育」は不思議である。
 ●日本女子大学附属 中学と高校はまったく別の学校。学習も、生活も、行事も連続させるのではなく、
 敢えて大きな段差を作る。段差があることで、子どもは急激に成長するという。高校ではことごとく自
 分たちに判断させる。携帯に関するキマリもない。それでも授業中に着信音が鳴ることはない。自分た
 ちで決めたキマリだからだ。通学時に道路をふさぐことで近隣からクレームがあったときでも、教
 員が立つのではなく、生徒自身が要所に立って指導する。自治活動は実に徹底している。

「ビジョナリー」2011年7月号掲載     |もくじ前に戻る次に進む

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