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GWの1日、仕事で煮詰まっていたので久しぶりに山登りに出かけた。といっても、前日も
会食で夜遅かったので、時間がかからない近場ということで、熱海の山にした。
標高800メートルの低山だが、高台の住宅地のバス停が登山口なので、標高差は500メートル
を超えている。ごく短い距離で標高差500メートルを稼ぐのであるから、道はほとんど直登状態。
視界の開けない雑然とした森の中を、ひたすら足元に視線を落として登る。面白みがないから結
構きつい。行程の何分の1が過ぎたのかも全く見当がつかない。
休憩をとりたくなったころ、ようやく一つ目の道標が見えてきた。ここまでで、頂上までのど
のくらいの部分をこなしたのか知りたくて急ぎ足で近づく。が、道標には支柱に「玄岳ハイキン
グコース」と白い文字で書かれているだけで、横板にも「←熱海、頂上→」とあるだけ。心の中で、
「道が登っているのだから、そんなこと当たり前だろ!」と毒づく。
仕方なくまた歩き始める。しばらくして前方にかなり大きな看板が現れた。こんどこそ「頂上、
まで〇〇q」「頂上まで○○分」の文字があるに違いない。そう思って近寄る。愕然! 看板には
ただ、「緑の風は心の詩」。
「確かにそうだよ。お主の言うことに間違いはないよ。だけどな、今俺が知りたいのはそんな
ことじゃない。あとどれだけなのか知りたいんだ!」……心の中で怒鳴る。「まずは必要なことに
応えてくれよ。きれいな言葉はそれからだよ」
はなく、「荒野」をめざしてほしい、ということだ。
学校もそうではないだろうか。わが国の将来像が決して明るくないだけに、今保護者はわが子
の将来に大きな不安を持っている。以前のような余裕がない。保護者も、「きれいな言葉」を否定
しているわけでは決してない。「きれいな言葉」を聴いてもらうためには、不安を解消する施策も
提示しなければいけないのではないだろうか。
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