教育天声人語
30年前も、森下洋子さんはすごかった

  つい最近の新聞に、バレエの森下洋子さんの記事が載っていた。もう30年くらい前になるだ
 ろうか、当時雑誌の編集者だった私は、森下洋子さんにインタビューした。そのころ、義理の
 妹が森下さんの仲のよい友だちにバレエを習っていたこともあって、初対面にもかかわらず打
 ち解けていろんな話を聞かせてもらった。
  小学校2年のころから長期休みには一人で夜行列車に乗って広島から稽古に上京していた
 こと。6年になった時に、バレエの師、橘秋子の家で住み込みの生活を始めたこと。
  私は、ありきたりの質問をした。「中高時代にいちばん影響を受けた本や映画は何ですか?」
 即座に答えが返ってきた。「あらっ、ごめんなさい! 私、少しもお役に立てないわ」──間を
 おいて、すまなそうにしながら、その理由を語ってくれた。
  中学・高校時代は、授業が終わると、制服のまま八百屋さんや魚屋さんに寄って食材を買い
 そろえ、夕飯の下ごしらえをする生活。それが終わると、通ってくるお弟子さんに先生が稽古
 をつけるのを手伝った。お弟子さんたちが引き上げた10 時ごろからが夕飯の時間。後片付け
 が終わった深夜が漸く自分が稽古できる時間だった。朝は6 時に起き、年下の内弟子が2人い
 たので、3人分のお弁当を作ってから学校に向かった(因みに高校は吉祥女子)。
  映画どころか本を読む時間すらもない青春時代。が、30代の森下さんからはすばらしい人間
 性がにじみ出ていた。細い体は毎日1足ずつバレエシューズを履きつぶすほどの激しい練習で
 贅肉がまったくないほどに鍛えられていた。「私は本当に労働者なのよ」
  バレエの練習だけをしていればいいという生活でなかったから、さまざまな家事をこなし、
 助手として手伝いをする生活だったから、深い人間性が培われたのではないだろうか。また、
 こんな話もしてくれた。「お母さんが、次の発表会のための練習をさせてしまうと、大成しない んですよ」

「ビジョナリー」2009年7月号掲載     |もくじ前に戻る次に進む

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